読み物
犯罪映画の秘かな愉しみ ― 高崎俊夫(編集者)

まずジョン・ヒューストン『アスファルト・ジャングル』があった。

 「犯罪とは人間の努力が逆の形で現われたものにすぎないのだ」と呟いたのは、『アスファルト・ジャングル』(51)の悪徳弁護士ルイス・カルハーンである。トーキー初期から無数につくられた犯罪映画の歴史のなかで、『アスファルト・ジャングル』がひと際、不滅の古典として屹立しているのは、こんなアイロニイに満ちた警句を一席ぶつ、ひと癖もふた癖もある悪党を登場させたからだ。鉄壁の宝石店強奪計画を立案し、メキシコシティに高飛びして余生を過ごすのを夢想する初老のサム・ジャフェ、競馬狂いで祖父伝来の農場を買い戻す夢を抱くスターリング・ヘイドン、子煩悩の家庭人で金庫破りの名人アンソニー・カルーソーetc。かつて犯罪者の側にこれほど寄り添い、それぞれの屈託した性格が陰影深く描かれたことはなかった。しかし、アンソニーが警官の拳銃の暴発によって致命傷を負い、緻密な計画は、もろくも崩れさっていく。
 監督のジョン・ヒューストンは、フィルム・ノワールの原典『マルタの鷹』(41)で鮮烈なデビューを飾り、以降、生涯を通して、妄執に取り憑かれた男たちの行為が空しく水泡に帰する<必敗の哲学>を謳う、苦い諦念に満ちた映画を撮り続けた。中でも『アスファルト・ジャングル』はその頂点であり、彼は若くして一気にハリウッドの巨匠に上り詰める。

新人スタンリー・キューブリック衝撃の登場

 しかし、その五年後、当時、無名の一人の若造が、その牙城をゆるがすような、同工のケイパー・ムーヴィー(犯罪映画)・ジャンルに楔を打ち込むクールな傑作を放つ。スタンリー・キューブリックの『現金(げんなま)に体を張れ』(56)である。やはり刑務所を出たばかりのスターリング・ヘイドンが、仲間を集め、競馬場の売上金強奪を目論む。ティモシー・ケリーをはじめ異貌のキャラクターたちが壮観だが、性悪な妻マリー・ウィンザーへの嫉妬に狂い、悶々とする小心なイライシャ・クック・Jrの情けない表情はとくに忘れ難い。そのウィンザーの裏切りによって、愛人のマシンガンが火を吹き、次の瞬間、アパートの一室にギャングたちの死体が累積している光景は、かつてのハリウッド映画では見られなかったほどショッキングだった。ここにはヒューストン流の敗残者を慈しむようなロマンティシズムはかけらもなく、どす黒い欲望、裏切りと酷薄なエゴだけが剥き出しにされている。
 もうひとつ、キューブリックは、この作品で、犯行当日の悪党たちの行動を描写する際に、同一の場面をそれぞれの視点で繰り返し眺めるという斬新な映画話法を編み出した。後年、とびきりの映画中毒者クエンティン・タランティーノが処女作『レザボア・ドックス』(91)でそっくり丸ごと借用した語り口だが、本家はもっと幾何学的とでも称すべき冷え冷えとした硬質な画面造型で酔わせる。飛行場の伝説的なラスト、ふたりの刑事がヘイドンに向かって歩み寄って来るシンメトリックな構図は、それ以後、キューブリック作品に必ずオブセッションのように頻出するのは周知の通りだ。
 このふたつの神話的な作品に主演しているスターリング・ヘイドンは、その頃、赤狩りで非米活動委員会に招聘され、かつての共産党員仲間の名前を売り渡した。ヘイドンは、この裏切りによって延命を計ったゆえに自責の念に駆られ、生涯、苦悩にさいなまれたが、彼の演技は、それゆえに内面的な深みを帯び、晩年の『ゴッド・ファーザー』(71)、『ロング・グッドバイ』(73)の至高の名演に美しく結実している。

ノワールは海を渡り、フランス暗黒映画の黄金期へ

 そして、この<裏切り>と<男の友情>という相反するテーマを交錯させ、極限まで推し進めたのが、フランスの暗黒街映画である。ジャック・ベッケルの『現金(げんなま)に手を出すな』(54)は、その最高傑作だ。老ギャング(ジャン・ギャバン)が相棒と一緒に五千万フランの金塊を強奪するが、金塊を狙うギャング一味に相棒を拉致され、ギャバンは金塊と交換に救い出すが、壮絶な銃撃戦の果てに、金塊は炎に包まれる。
 この映画では、ほとんど全篇が漆黒の夜の闇に覆われていて、画面からは、絶えずやるせない不安感や寂寥感が滲む。まだ蓮っ葉なあどけなさが残るジャンヌ・モローも含め、登場する女たちは皆、金や欲望であっけなく転ぶ、唾棄すべき存在として悪意をもって描かれているのが印象的だ。こうした徹底した女性不信もフランスのフィルム・ノワールの大きな特色のひとつである。

メルヴィルが描いた「裏切り」と「孤独」

 しかし、ベッケルと同様、<ヌーヴェル・ヴァーグの父>と呼ばれたジャン=ピエール・メルヴィルの映画では、男同士の友情すらもはや至上の価値ではない。
 ヒューストンの『アスファルト・ジャングル』を「完璧な作品」と絶賛し、フランス映画の中でギャング映画というジャンルを究極の様式美へと高めた巨匠メルヴィルは、あるインタビューで次のように語ったことがある。
 「仮にふたりの人間がいれば、ひとりは裏切り者だからさ。私が孤独を選んだのはなぜだと思う?……人間同士の取引というものは非常に危険だ。裏切られないために私が見つけた唯一の解決策とは、ひとりで生きることだよ。……裏切りとは、愛よりもずっと、人間を行動に駆り立てる根本的な原動力のひとつだと思う。『カルメン』では、生きる糧となるのは愛だそうだ。しかし、そうじゃない。裏切りこそが人を生かすんだよ!」(『サムライ ジャン=ピール・メルヴィルの映画人生』)
 メルヴィルの映画では必ず主人公が鏡でじっと自分の顔をみつめるシーンがある。それは老いの自覚と孤独を痛切に確認する儀式なのである。たとえば、『賭博師ボブ』(55)の冒頭、ボブは鏡に向かって「大したツラだぜ」と呟く。しかし、ボブはカジノを襲う計画を立てるが、女に甘い相棒の口から襲撃の計画がもれ、警察に通報されてしまうのだ。
 『いぬ』(62)でも主人公ジャン=ポール・ベルモンドは、ムショ帰りの親友セルジュ・レジアニを救うためにアリバイ工作としての殺人を重ねる。しかし、一瞬でもベルモンドが自分を裏切ったと思い込んでしまったことから悲劇が始まる。ラスト、殺し屋に撃たれ、瀕死のベルモンドは壁にかかった鏡に向かって帽子をかむりなおしてみせる。情婦に電話して息絶え、キャメラは帽子がころころと転がっていくのをとらえる。映画史に残る名シーンだが、そこには同時に裏切りによるやりきれない苦渋が暗くにじんでもいる。
 晩年の『サムライ』(67)でもアラン・ドロン扮する殺し屋は、外出する前に必ず鏡に向かって帽子をかむりなおすが、それは、自らの運命と死の予感を自覚するための厳粛なセレモニーのようでもあった。

久々に闇を表出した『裏切りの闇で眠れ』

 メルヴィルの亡き後、フランス映画は、一時期、エンターテインメントで味付けしたギャング映画は量産されたが、夜の闇と不安感を表出させたフィルム・ノワールはほとんどつくられなくなってしまった。
 『裏切りの闇で眠れ』(06)は、その意味で、文字通り、都会の夜の闇を深々とたたえ、血で血を洗うろくでなしのギャングたちの精神の暗黒面を抉り出した、久々の本格的なフィルム・ノワールといえるだろう。非情な一匹狼の殺し屋ブノワ・マジメルがふっと浮かべる放心の表情には、『いぬ』のベルモンドや『サムライ』のアラン・ドロンが体現していた孤独な翳りが、たしかに揺曳しているからである。