
「SCÈNES DE CRIMES」を英語に直せば、シーン・オブ・クライム、つまりわれわれのTVの刑事ドラマで言うところの「現場(げんじょう)」をタイトルにしたいかにも世紀末的な作品で2000年にデビューしたのがフランスの新鋭フレデリック・シェンデルフェ−ルだった。父親の映画監督ピエールの後を継ぐ二世監督だ。その意味では、脚本家の父ミシェルの影響下、『天使が隣で眠る夜』(94)でデビュー、『リード・マイ・リップス』(01)を放ったジャック・オディアールと似ている。双方、フランスの犯罪映画の新しい担い手だ。
少女の首なし死体という猟奇殺人を老若の刑事二人組が捜査、彼らの生活と捜査の進展をさながらドキュメンタリーのように追っていくスタイルにデビューを意識したケレンはない。『TAXi』(98)とか『ヴィドック』(01)の撮影監督ジャン=ピエール・ソヴェールもその騒々しいキャメラ・ワークを一変、監督の意に沿って渋く、淡々と素材にキャメラを向けている。シェンデルフェールはデビュー時からそのスタイルを完成させていた監督だ。アクション寄りでもなく心理過重でもなくその中間の流体を記録する。
検死の時、無造作に台の上に置かれた少女の死体の出来がすばらしくリアルで、これはCGで首だけ消したのかと思わず目を凝らしたものだ。写真も多く残した快楽殺人犯の台詞「(少女たちの)恐怖は記録できるが、痛みはうまくいかない」が印象的。このデビュー作は残念ながらわが国では劇場公開されることはなくDVDスルーとなったが、邦題はおどろおどろしくZ級作品を思わせる『少女首狩事件』(00)だ。首狩!まあ、その通りではありますが。
二作目『スパイ・バウンド』(04)は、ヴァンサン・カッセルとモニカ・ベルッチというフランスきってのカップル共演、しかもスパイものというにぎにぎしさを完全に裏切り、これまた渋く実話ベースに映像を引き戻している。とはいえ、ラストが近づくにつれ、さすがスター夫婦にふさわしく、映画はリアリズムから浮遊気味に終息する。それ以外にも、船爆破の任務のさなか、ストーリーから離脱したかのように二人が海で泳ぐ場面は異様に長く不安なまでに美しい。
さて、『少女首狩事件』、『スパイ・バウンド』を繋ぐものは何か、といえば監督の弟、リュドヴィックの<誰であってもいい、ならば四の五の言わないお前だ>風ちょい役キャステイングだ。無精髭、手入れの行き届かない髪、口調・・・役作りなどみじんもない、まさに員数揃えの好見本。まさかと思ったが、『裏切りの闇で眠れ』でも、まったく同じ風貌でてらいなく出演しているではないか!ここまでくると、もはやシェンデルフェール作品の<顔>であろう(?)。
『裏切りの闇で眠れ』を一言でいえば、ノワールというよりブノワ・マジメルがかっこよく生き抜くハード・ピカレスクといったほうが映画の座りがいい。同じ殺し屋でもアラン・ドロンの『サムライ』(67)のロマンティシズムはここにはない。ブノワは女も躊躇なく殺す悪党だ。ピカレスクをハードで形容する理由である。徹底的に情緒を欠いた新しいパリ・ギャング社会のリアリズムは、ノワールの崩壊感覚、あるいは詩情を構築する場としてはぺらぺらで乾きすぎている。監督はそこをドライにテカテカの醜悪な表層として投げ出すように描く。そこが新鮮だ。拷問もとてつもなく無慈悲。こうした醜悪な表層を繋ぐリズムがいい。共感、あるいは同情の余地のないテカテカの悪の表層、無感情の表層をオールバックに髪を撫で付けた殺し屋ブノワが一人、計算高く罠を仕掛け、また罠を逃れながらすべるように生きていく。このすべるような感覚は編集のリズム以上にブノワの表情、警戒と無関心がブレンドされた卓越の表情に多く依存するものだ。そして、これまでのシェンデルフェール作品すべてのように、ラストではそれまでの不穏を忘れ、男のピカレスク幻想を満たすかのように、一見晴れやかな空気が流れ込む。シェンデルフェール作品の後味がいいのは、その後の運命はわからないとしても、彼が映画のラストに流し込む空気の新鮮さ、甘美さによる。それはノワールの後味ではない。
パリのアンダーワールドはいまや、アラブ社会が侵略し、それにロシアン・マフィアが魔手を伸ばしていることが『裏切りの闇で眠れ』を観ると良く分かる。実際そうなのだろう。ヨーロッパの夜社会に女を送り込む非道なキャンプの存在に唖然としたが、共産圏消滅以後、ユーロ圏として悪の王国もまたいっそう非人間化を加速してパリの闇に紛れ込む。
女をまさに物体としてしか扱わない作品だが、さすがに隙っ歯の女王、ベアトリス・ダルが登場すると空気が揺らぐ。役柄に押さえ込めない存在感があるのだ。加えて、抽象的、哲学的な主題歌を歌うマリアンヌ・フェィスフルが言うまでもなく絶品で、不浄の男世界に歌声だけで拮抗するのである。


