
*物語の結末にふれている部分がございますので、予めご了承ください。
白、赤、淡い青色の光の輪がいくつも点滅しながら左右に移動する幻想的な映像に音楽とクレジットが重なる。正面から近づく男の顔にしだいにピントが合い、光輪の正体が街の灯だとわかって、物語が始まる。
物語だって? いや、そんなものはこの映画にはない。幻想もまやかしもない。固有のシーンを形成する男たちの、一度かぎりの迫真の姿そのものがこの映画のドラマなのだ。
『裏切りの闇で眠れ』というかなりおしゃべりなタイトルをつけられているが、この映画の作り手たちは無用な説明を好まない。表情だけをクロースアップでとらえた思わせぶりな長いカットは安易に用意されない。観る者が登場人物の心の奥に入り込もうとするのを拒絶するかのように。一度観るだけでは読みとれないシーンも多い。
たとえば冒頭のタクシー内での殺し。街角でいきなり乗り込んでくる若い男と中年の運転手との関係は車内での想定外の二つ目の殺人と同時に明らかにされる。二人は相棒で、素姓はプロの殺し屋なのだ。
またたとえば結末近くでの生き埋めのリンチ。殺される男は背中の刺青でしか識別がつかない。
この映画には導入部が三つある。一つ目は二人の殺し屋、フランクとギイによるタクシー内での二重殺人。ついで、暗黒街に君臨する初老のボス、クロードと彼の手下たちや愛人の存在が示され、三つ目のイントロにひきつがれる。若いやくざの出所シーンと彼を出迎える新興やくざ集団のお目見得だ。手際よく描かれるこの三つの導入部にこの映画のおぜん立てがすべて提示されている。つまり、ギャング映画の古典的要素がぜんぶ盛り込まれているということだ。
「俺は一匹狼だ。カネで仕事をする」
最後の大仕事の契約時に、いつも寡黙なフランクがめずらしく口にするのがこの台詞だ。ここで私が思い出すのは、言うまでもなく『サムライ』のアラン・ドロンを筆頭とする無数のローンウルフたちである。
「天国はいまここにある」「魂などクソくらえ」とうそぶく若いけものたちの集団とギャング団の初老のボスとの対立は、これまたギャング映画の古典『現金に手を出すな』のリノ・ヴァンチュラとジャン・ギャバンを思い出させる。
第二次大戦後のモダン・ノワールの歴史の中で、アメリカのジェイムズ・エルロイ、日本の馳星周を主軸にした犯罪小説やクエンティン・タランティーノ一派のフィルムノワールが先鋭的な新展開を見せた時期が十年ほど前から始まった。当時、日本の雑誌でも多くの特集が組まれたが、先陣を切ったのは<GQ>の「犯罪小説とフィルムノワール」という特集だった(1998年5月号)。そこに収められた「犯罪小説とは何か?」という評論の中で、テレンス・ラッフェルティはフィルムノワールについて次のような簡潔な定義を試みた。
「フィルムノワールとは、すぐに満たしたい欲求に駆られた(たとえばセックス、金、復讐などはもっともありふれたもの)キャラクターたちが、非常に危険で複雑かつモラルに欠けた行動を、恐怖や欲求、絶望の入り交じった雰囲気のなかで繰り広げるクライムストーリー」(坂野徳隆訳)
そのあともノワールの世界は行きつ戻りつ試行錯誤をつづけてきた。私は『キル・ビル』や『シン・シティ』のCGを多用したコミック調のこけおどしの手法は好まない。その点、この新しいノワール映画『裏切りの闇で眠れ』の撮影技法は私の好みだった。手持ちカメラでの回しっぱなしの長いカットは、前半の駐車場での真昼の撃ち合い、仮出所したクロードが襲われる大詰めの夜の街頭シーンで効果をあげていた。CG全盛の時代だからこそ、この古くからの手法が新鮮に感じられるのだ。
ギャング映画の古めかしい伝統と決まりごとをなぞりながら、同時に『裏切りの闇で眠れ』の作り手たちは、古い殻への反逆を試みる。たたみかけるように重なる、嘔吐感さえ催させられるリンチ・シーンの過激かつ非情なリアリズム。凄惨な殺人のあとには、生ガキを食らいながら下卑たジョークに興ずるパーティがつづき、着衣のままの激しい性交シーンに場面が変わる。このつなぎの手法は、まさに前出のラッフェルティの定義を地でいっている。
だがこの映画は、往年のギャング映画が売り物にした男の友情とか闇の世界の仁義(けじめ)によって縛られてはいない。強調されているのは現実的な利益優先の実利主義であり、不服従や裏切り行為に対する残酷な報復である。男同士の人情話めいたセンチメンタリズムはかけらもない。
殺しのシーンはとりわけ非情に徹している。死に行く者に憐れみはいっさい示されない。死ねばそれまでなのだ。
しかし生きている者たちは、冷徹な若い殺し屋フランクをのぞいて、ときとして激情をむきだしにする。「お前らは真の男じゃない」と手下たちを罵るクロード。フランクの相棒ギイは、浮気した若妻をきびしく責め、折檻する。この映画の作り手たちは、初老のボスの愛人に二度涙を流させることもしている。
これらのシーンは、私に言わせると、文体の乱れだ。
この映画は、若い殺し屋フランクの視点からは観られない。内面描写を徹底して排除しているために、観る者は彼への感情移入を拒まれる。古典的な「一匹狼」ではあるが、ロマンチックな要素はひとかけらもない。
愛人である黒人娘との点描が数度あるが、意味のある会話はない。高層マンションの一室に住み、部屋には飲物が少しだけ入った、ほとんど空の冷蔵庫と熱帯魚の水槽が置かれているだけだ。
現在だけでなく、この男の過去をのぞく手がかりもない。彼を知るには、外から描かれる彼の行動を観察するしかない。
登場人物を外面からのみ描くこの手法は、小説で言えば文体論にかかわってくる。ハードボイルドを語る最も本質的、根源的な意味合い----冷酷、非情、非感傷的という定義に基づいた文体=手法である。
最後の殺しの直後のフランクと相棒ギイの、ファースト・シーンと同じ車中での描写が、私は好きだ。無表情のまま、まず画面右側にフランクの横顔が映り、つぎに画面左側のギイの横顔、そして「してやったり」と言いたげな短い身振り。二人の顔は同時には一度も映らない。文体は乱れていない。
そして、巻頭の幻想的なシーンとみごとに対置されているラスト・シーン。真昼のダカールの雑音をひとりさすらうフランク。すべてから解放されて、ひとりぼっちの本来の姿に戻った若い殺し屋。
「お前が死ぬ前に最後の煙草を」の歌詞が重なるこのラスト・シーンから初めて、荒涼としたセンチメントが淡くつたわってきた。
これが、新しいノワールの文体なのだろう。


